小説「望郷」インタビュー vol. 3
- 2022.05.19
- インタビュー
「いのち、自由、故郷」という誰もが守られるべき三つこと、そして「モロゾフ・コレクション」展で感じたある一つの問いーー。それらを引き寄せ、小説に昇華した「望郷」インタビュー最終回。
もしかしたら「モロゾフ・コレクション」は戻せないんじゃないかという直感。
――昨年9月末からパリで開催された「モロゾフ・コレクション」展ですが、展覧会が始まってすぐにマハさんはご覧になっていたんですね。
マハ……昨年10月に一度観に行って、そのときは会期が今年の2月末までの予定でした。でも今回パリ入りしてすぐに、会期が延長されたことを知って、驚きました。人気の展覧会は延長されることも多いですが、通常は会期が終わったら、最短で作品は返却されるものなんです。
――そんなに早く絵画を借りた美術館に戻されるんですね。
マハ……一日が延びるとそのぶん保険料がかかりますから、展覧会が終わるとなるべく早くコンディションチェックをして返却する流れになっています。これだけ素晴らしいコレクションが集結していますから、返却の際、空輸する飛行機を何機かに分けて輸送するのも大変なはずです。それなのに延長していると知って、もしかしたら作品を戻せないんじゃないか、もしくはフランス政府の判断で、ひょっとして戻さないということもあり得るんじゃないかと、直感的に感じました。
――小説「望郷」の後日談的に配信されたツイートで触れられているように、マハさんの予想どおり、オルガリヒ所蔵の作品とウクライナ美術館所蔵の作品が返却されないことが決定しました。
マハ……「松方コレクション」を題材にした『美しき愚か者たちのタブロー』を執筆したときに、戦争の巻き添えになったタブローの運命を深く考えました。当時よりも文化に対する扱いは文明的ではありますが、どこに置かれているのが作品にとって一番いいのか。戦争に巻き込まれるリスクは常にあって、ヴァンダリズムの矛先が、重要な作品に向かわないと誰も言い切れません。ロシアの美術館が所蔵の作品や、近代印象派のマスターピースに関しては、正式な発表がないですが、あまり公にしてしまうと文化戦争の火種になってしまう可能性もあります。
――今回の「モロゾフ・コレクション」展のカタログには、展覧会に向けたプーチン大統領の言葉が掲載されていました。
マハ……歴史的にみても、平和なときは美術品、アート作品を文化交流の大使として活躍させますが、有事になると権力者は文化のことを一瞬で忘れてしまいます。この先、他国がロシアの美術館から作品を借りることは難しいでしょうし、私たちがロシアの美術館へ行く機会も減ってしまいます。
私は三回ほどロシアに行ったことがあって、トルストイ博物館やプーシキン美術館に足を運びました。トルストイ美術館では学芸部長の方に、「自分は日本の作家で、尊敬するトルストイの原稿を見せてほしい」とお願いしたら、「私たちの国の宝、トルストイの『戦争と平和』の原稿を見せましょう」と、生原稿を見せていただいたことがありました。余白がないほど紙にびっしりと美しい文字が書かれた原稿を、私が食い入るように見ていると、「国の宝なんです」と何度も彼女が言っていて、彼女の心に触れた気がしました。プーシキン美術館の方もとても誇らしそうに作品を解説してくださって、あのとき出会った人たちのことを考えると切なくなります。
今生の別れかもしれないという予感が、からっぽのギャラリーのなかにあった。
――昨年「モロゾフ・コレクション」展をご覧になったときと、ウクライナ侵攻が始まってからでは、まったく違った意味合いをもつ展覧会になりましたね。
マハ……展覧会の最後で私が見た作品は、門外不出と言われていたゴッホの《刑務所の中庭(囚人の運動:ドレを模して)》でした。この絵はゴッホが、精神科の療養院に入院し、身体的な自由を失われていたときに描いたもので、生まれ故郷のオランダからも、テオがいるパリからも離れ、ある種の望郷の思いがゴッホにはありました。閉館間際の時間、絵のまえにひとりっきりでコンタクトしていると、「自由になりたい」「戻りたい」というゴッホの叫びが聞こえてきた気がしました。
いつもなら素晴らしい作品を観たあとは足取りが軽いんですが、この作品と別れるとき、血を分けた肉親や兄弟と離れるような感覚が一瞬、胸をよぎって写真を撮りました(「望郷」Day18)。この状態がいつまでも続くのであれば、もうこの絵を見ることは一生ないんだろうなと思ったんです。
――いままでそんな思いになったことはありましたか?
マハ……もう会えないなんて気持ちで美術館を後にしたのは初めてでしたね。生きている限り、何度でも美術館に通いたいですし、素晴らしい名画を観たい。でも今生の別れかもしれないという予感が、からっぽのギャラリーのなかにありました。
残念ながら、当面はロシアとの国交は回復しないかもしれない。「望郷」で投げた大きなクエスチョンに、まだ答えは出ていません。二年前から持ち続けている、いまこのときの世界の動きを書き留めておかなくという思いを胸に、この先、世界がどうなっていくのか、見守りつづけたいです。
(インタビュー・構成/清水志保)
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