PROFILE

     

原田マハ本人による「作家デビュー前」「デビュー後」の自伝的プロフィールと、著者略歴。
日本語、英語、フランス語に対応。

原田マハ

1962 年東京都生まれ。関西学院大学文学部日本文学科、早稲田大学第二文学部美術史科卒業。伊藤忠商事株式会社、森ビル森美術館設立準備室、ニューヨーク近代美術館勤務を経て、2002年フリーのキュレーター、カルチャーライターとなる。2005年『カフーを待ちわびて』で第1回日本ラブストーリー大賞を受賞し、2006年作家デビュー。2012年『楽園のカンヴァス』で第25回山本周五郎賞を受賞。2017年『リーチ先生』で第36回新田次郎文学賞を受賞。ほかの著作に『本日は、お日柄もよく』『キネマの神様』『たゆたえども沈まず』『常設展示室』『ロマンシエ』など、アートを題材にした小説等を多数発表。画家の足跡を辿った『ゴッホのあしあと』や、アートと美食に巡り会う旅を綴った『フーテンのマハ』など、新書やエッセイも執筆。

作家前(1962 ~ 2005)
1962
東京都小平市に生まれる。

3歳のころから絵を描き始め、幼稚園児の頃は兄(原田宗典)と競い合うように児童書を読みあさる。お気に入りの本は「ドリトル先生」「シートン動物記」。好きなアーティストはパブロ・ピカソ(自分のほうが絵の腕前は上だ、などと思っていた)。
1972
夏休み、岡山に単身赴任中の父に呼び寄せられ、家族で開通したばかりの山陽新幹線に乗って初めて岡山訪問。父に連れられて初めて倉敷にある大原美術館へ行く。数々の名画に見とれつつ館内を進んでいくと、見たこともないようなキテレツな絵が。「何これ?ちょっと下手くそすぎない?あたしのほうがうまいよ」と本気で思う。パブロ・ピカソという名のその画家は、それ以降、我がライバルとなり、のちに人生を導いてくれる導師となる。
1974
小学6年生のとき、百科事典や美術書などのセールスマンをやっていた父の仕事の転勤によって、岡山へ。岡山市下伊福に住む。岡山市立三門小学校、市立石井中学校を経て、私立山陽女子高校入学。フォークバンドを結成し、自作イラストつき恋愛小説、少女マンガを書くなど、かなり進歩的な10代を過ごす。
1981
関西学院大学文学部入学。当初、ドイツ文学科に所属したが、あまりにもドイツ語ができなくて日本文学科に転科。おかげで、明治―現代の代表的な小説をほぼ読破。
就職活動の足しになればと、4年生のときにグラフィックデザインの専門学校に通う。

のちに、阪神大震災で崩壊する運命となる西宮のアパートで、友人と共同生活を送る。このころ、その友人と共著で、少女マンガ「ロマンチック・フランソワ」を「りぼんまんが大賞」に投稿、最終選考に残るもあえなく選外に。
実家は大学1年のときに、岡山から東京へ移住。
1983
7月、21歳の誕生日を記念すべく、京都市美術館で開催中だったピカソ展に行き、完膚なきまでにやられる。「こいつには負けられない…」となぜかライバル視していたピカソが、とんでもない天才だったことにようやく気づき、「どこまでもついていきます!」と心に誓う。
秋、友人に「この画家知ってる?」と、見たことのない画集を渡され、「何これ?ちょっと下手くそすぎない?いや、これは今度こそ下手でしょ。今流行りのヘタウマとかじゃなくて、本格的に正真正銘のヘタヘタでしょ」と失礼きわまりない思いを抱いたその画家の名はアンリ・ルソーであった。
あまりのヘタっぷりにむしろ引き込まれてしまい、ルソーの画集や関連書籍を図書館で読み漁る。おりしも発売されたばかりのルソー研究書「アンリ・ルソー 楽園の謎」(岡谷公二著)を大学の生協でみつけ、読み耽る。ルソーの絵の面白さと人間性にすっかり魅了され、「いつかルソーの物語を描いてみたい…」と思いを募らせる。
1985
関西学院大学卒業。卒論は「谷崎潤一郎:痴人の愛」。就職先がみつからなかったので、そのまま西宮に居残り、バイトをしながら専門学校を卒業。
1986
東京でコピーライターをやっていた兄に呼び戻され、東京へ。
広告プロダクション二か所で勤務するも、あまりの激務に音を上げ、退職。

もともと好きだった現代アートの世界に目覚め、独学で現代アートについて学ぶ。この頃、資金も才能もないのに「ニューヨークへ留学>キャリアアップ」の妄想にかられる。
1987
兄が小説家デビュー。子供の頃からの夢をかなえた兄の根性と才能に仰天。
1988
原宿でたまたま通りすがりにオープンの準備をしていた「マリムラ美術館」(現在は閉館)に行き当たり、飛びこみで「雇ってください」と訴える。その度胸を買われて、まんまと就職。美術展の展示、コレクションの管理、広報、受付と幅広い活動をし、美術館の実務を経験。
1990
5月に結婚。マリムラ美術館を退職し、知人から誘われていた民間のアートマネジメント学校のディレクターとなる。が、肩書に憧れて引き受けたものの、ボランティア活動に近く給与もない。現状打破をもくろみ、その学校にたまたま視察にきた伊藤忠商事新規事業室の人物を頼って、ほぼ飛び込みで「企業とアートの新しい関係」についてプレゼンさせてもらう。またもや度胸を買われて、めでたく伊藤忠商事に中途入社が決まる。
1991
伊藤忠商事株式会社新規事業開発室で仕事を始める。全国の地方自治体や企業の「アート、文化に関するコンサルティング」が主な業務。新しく美術館を開設する際のコンサルティングや、コレクションの売買、展覧会のプロデュースなどを手掛ける。営業で、全国の都道府県を飛び回る。世界中のコレクターやギャラリスト、美術館との交渉も、語学力はなくとも度胸だけでなんとか奇跡的にやり抜く。
1993
当時顧客の一人だった森ビルの森稔社長より「六本木に巨大な都市開発をするのだが、そこに美術館を造ろうと思う。相談にのってくれますか?」と頼まれ、チーフコンサルタントとして「森美術館」の構想策定に乗り出す。
1994
「美術コンサルタントもいいけれど、いつかキュレーターになりたい…」と思い始め、早稲田大学第二文学部の美術史科を学士受験(三年から編入可能)。当時、新宿区西早稲田に住んでいたため、早稲田の二文(夜間と土曜日のみ授業)ならば会社勤めしながら通えると判断した。昼夜を分かたず猛勉強し(人生最高の勉強量!)40倍の倍率をくぐり抜け、合格。専攻は20世紀美術、卒論は「ル・コルビュジエの絵画論」。学芸員の資格を取得。
1995
森社長のお誘いを受け、伊藤忠商事を退職、森ビル株式会社に入社。本格始動した森美術館の設立準備室に所属。
以後、世界中の美術館を森社長夫妻と視察。またもや度胸だけで世界中のアートセレブと会いまくる。以後、六本木ヒルズのブランディングや、美術館設立にまつわるほぼすべての業務に関わる。
1996
早稲田大学卒業。
1999
突如森社長に呼び出され、「あなたの英語は下町英語(ブロークンイングリッシュのこと)だね」と指摘される。度胸だけで通してきた英語を看破され、返す言葉なし。ところが、「通訳学校に行きなさい」と社長に寛大にも指示され、通訳学校に入学。またもや仕事をしながら人生最大量の英語の猛勉強をし、ビジネス通訳初級を獲得。以後、ちょっと自信を持って社長の通訳を務められるようになる。
2000
ニューヨーク近代美術館(MoMA)と森美術館が提携関係を結ぶ。人的交流の一環で、MoMAに派遣され、6か月間のニューヨーク駐在。MoMAインターナショナルプログラムに所属し、美術館のしくみを学び、企画展、国際展についてリサーチを行う。
2002
森美術館の館長が決定されたのをきっかけに、「人生でほんとうにやりたいことは何か?」と考える。おりしも40歳になる年だったので、「女の人生は40代がプライム。いちばんやりたいことを40代でなしとげる」と考え、またもや度胸で退職。実はなんの展望もなかったが、直観だけで独立。
同じころ立ちあげられた都市の再生プロジェクト「Rプロジェクト」に参加。のちに朋友となる建築家やデザイナーなど、キラ星のごときクリエイターたちと出会う。

新しい都市論としての本、「R the Transformer」を建築家・馬場正尊氏と共著、出版。
都市開発の会社など、フリーランスで文化コンサルティング、ブランディングを手掛ける。
2003
Rプロジェクトの取材がきっかけで、編集者・菅付雅信氏に出会う。当時、雑誌「インビテーション」の編集長だった菅付氏は、「原田さん、ニューヨークに住んでたんだよね?むこうにいっぱいクリエイターの知り合いいるよね?今度ニューヨーク特集するんだけど、取材行ってみる?」と、こっちはライターとしてなんの経歴もないのに、突然オファーしてくる。やはり度胸で波に乗る。イラク戦争開戦3日後、がらがらのアメリカン航空でニューヨークに向かい、20人以上のクリエイターの取材をこなし、30ページ近くの特集記事を執筆。これが、カルチャーライターとして仕事を始めるきっかけとなる。 デザインイベント「東京デザイナーズブロック」に関わった縁で、デザイナー・佐藤直樹氏らとともに、「東京の東側にチェルシーのようなクリエイターエリアを作ろう!」と、突然、「セントラルイースト東京(CET)」というアートイベントを始める。100人近くのアーティストが、日本橋、馬喰町、浅草橋近辺の空きビルをジャックするイベントをやり遂げる。
2004
「CET04 VISION QUEST」という展覧会を仕掛け、動員は一気に2万人に膨れ上がる。

たまたま知り合いになった角川書店の編集者に「共同執筆で働く女性のインタビュー集を作らないか」と持ちかけられる。その取材で、沖縄の女性社長をインタビューすることになり、沖縄へ出向く。なんとなく文章を書きなれてきて、「ひょっとしてそろそろ小説書いてもいいかもな…」と漠然と考えていた時期だった。那覇で取材をしたのち、ぶらぶらとやんばるへ行き、そこで泊まった民宿のおかみさんから「伊是名という島がいいところらしいよ」と聞き、行ってみることにする。このときには、人生を変える運命がその島に待ち受けているとは思いもよらず。

伊是名島に渡り、浜辺で遊ぶ男性とラブラドール犬に出会う。もちまえの好奇心から、「何て名前のワンちゃんですか」と聞いたところが、「カフーっていうんです」と。「どう言う意味ですか?」「沖縄の言葉で、『幸せ』という意味です」・・・・・・
その瞬間、何かが、どーんと下りてきた。沖縄の離島の浜辺で、幸せという名の犬に出会ってしまった・・・・・。
帰りのレンタカーの中で、すっかり小説のプロットができあがっていた。

もし、あの犬の名前が「シーサー」だったら、小説を書くことはなかっただろう。飼い主の名嘉民雄さんの名付けセンスに感謝。
2005
1月1日、この記念すべき日を忘れまい、と元旦から小説を書き始める。
6月、共著「ソウルジョブ」刊行。小説をこつこつと書きすすめるが、角川書店の友人編集者に読んでもらおう、というくらいの感じだった。
7月末、いつも旅をしている友人と出かけた北海道真狩村のホテルのロビーで、いつもは読まない日経新聞を何気なく広げる。そこに「今、ラブストーリーがブーム」の文字が。「日本ラブストーリー大賞設立」「大賞受賞作は映画化」・・・・これだあ!と、思わずホテルの新聞の1ページをべりべりと破って持ち帰る。
9月13日、「カフーを待ちわびて」完成。しめ切り2日前。日本橋の郵便局から投稿。
同じころ、11年前から飼っていたゴールデンリトリーバー、マチェックが脾臓がんになり、症状が悪化、必死に看病する。また同じころ、「CET05」の準備が始まる。いま思い出しても、どうやってこの時期を乗り越えたか判然としない。
10月1日、「CET05 Office Vacant」が始まる。CET史上最高の5万人の動員を記録。
10月31日、宝島社より日本ラブストーリー大賞最終審査に残った旨、通知あり。マチェックの症状、悪化。
11月1日、恵比寿に60年代カルチャーショップ「TRIggER」をオープン(現在は閉鎖)。
11月2日、マチェック死去。涙、涙・・・・・・
11月30日夜、宝島社より電話あり。日本ラブストーリー大賞受賞。ただただ、びっくり。どうしていろんなことがこうもいっぺんに起るんだろうか・・・・・・
12月9日、授賞式に臨む。あまりにも落ち着き払っていたせいか、司会者控室に案内されかける。無事、受賞。
作家後(2006 ~)
2006
3月20日、13回もの校正を経て『カフーを待ちわびて』で作家デビューを果たす。先輩作家の兄からは「いい気になるな、本気になれ」とエールを送られる。デビュー直後の初サイン会(丸善・丸の内本店)。友人に声をかけまくり100名以上の行列となる。

完成した本をもって、お世話になった伊是名島を訪問。村民館で歓迎会を開いてもらう。集まってきたお年寄りに「マハ」と手書きの名刺を手渡すと「あー、いい名前だねえ、又八(またはち)さん」と言われる。以後、又八を川柳の雅号とする。
2007
亡き愛犬マチェックに捧げる書き下ろし『一分間だけ』を刊行。「盲導犬クイール」で知られる写真家、秋元良平さんが撮った岡崎市の平山さん宅の愛犬、ヴィヴィちゃんが表紙になる。のちに漫画家みづき水脈さんが「アイのリラ」として漫画化。平山家、みづきさん、秋元さんたちと「リラの会」を発足、交流を続ける。
2008
各文芸誌で連載を次々開始、「書く筋トレ」だと思ってとにかく書き続ける。
その結果、1年間に新刊を7作出すというハイペースな出版ぶりとなる。
旅を続けて書いた短編集『さいはての彼女』、ケータイ小説『ランウェイ☆ビート』、地方が舞台の『ごめん』(文庫時、書名を『夏を喪くす』に改題)、上海に1ヶ月滞在して書き下ろしたラブストーリー『#9』(現代美術家・やなぎみわ氏による表紙写真撮り下ろし)、映画を愛する父と娘の物語『キネマの神様』などなど。
日本各地、世界各国へと、物語の種を求めて精力的に取材を開始する。
2009
森ビル時代の同僚で飛行機オタクの矢部俊男さんに、日本の国産機「ニッポン号」が世界一周を果たした秘話を小説化しないかと持ち込まれて興味をもち、「翼をください」を書き上げる。「史実をベースにしてフィクションを書く」というスタイルの小説第1作目となった。
秋、『カフーを待ちわびて』の映画公開。原作初映画化。明青役・玉山鉄二さん、幸役・マイコさん、カフー役・黒ラブラドールの名演に感動。実は学生時代にアイデアが浮かび、いつか小説にしたいと胸に秘めていた、画家アンリ・ルソーとパブロ・ピカソの物語「楽園のカンヴァス」を出版各社に提案するも、「ルソー? 誰??」「なぜそんな画家を取り上げるのですか?」「アートがテーマじゃなくてやっぱりラブストーリーのほうがいいでしょう」などなど、なかなかいい返事が得られず。「芸術新潮」を発行している新潮社にあらすじを話してみたところ、「ルソーとピカソが出てくるなんて面白い!」と連載が決まる。調子に乗って「ひとつだけお願いがあるんです。かれこれ25年もこの物語を胸に秘めてきました。なので、この小説が刊行されたとき、帯に『構想25年』と書いてください!」と申し出ると、「わかりましたから早く書いてください」と言われる。その時点で1文字も書いていなかった。
『カフーを待ちわびて』のスピンオフ『花々』、小さな愛情ストーリー集『ギフト』刊行。
2010
ルソー没後100周年であるこの年に「楽園のカンヴァス」を書き始めようと、パリに長期滞在して取材、執筆を決心する。その前に、舞台のひとつとして登場させようと決めていた岡山県倉敷市にある大原美術館を表敬訪問、大原謙一郎理事長(当時)と高階秀爾館長にお目にかかる。ご両人ともに歓迎され、調子に乗って、憧れの高階館長に向かって「ひとつだけお願いがあるんです。この小説の連載が終わったら単行本になります。その3年後には文庫になります。そうしたらそのときに、高階先生になんとしても解説を書いていただきたいのです! お願いです! お願いお願いお願いです!!」と申し出ると、「わかりましたから早く書いてください」と言われる。その時点でやっぱりまだ1文字も書いていなかった。
2月〜4月、パリに滞在。ルーヴル美術館のまで徒歩1分のアパルトマンを仮寓にして、いつでもルーヴルコレクションに会いにいけるという信じがたい環境で、「ルーヴルの隣人」を自称し、さあ書くぞと腕を鳴らして執筆したのは、南大東島が舞台の「風のマジム」と、礼文島が舞台の「旅屋おかえり」であった。
8月『本日は、お日柄もよく』刊行。発売前、実家に泊まっていたとき、明け方にお赤飯の夢を見る。「チーン!」と大きな音が耳元でしたので、びっくりして飛び起きると、うちの旧式の炊飯器が炊き上がったときのチャイムの音だった。どういうわけか母が朝からお赤飯を炊いていたので、何があったのか尋ねると、「今日はあんたの誕生日でしょ?」と。そんなこともあって『本日は、お日柄もよく』の単行本の熨斗袋のカバーをめくるとお赤飯の写真が出てくるという世にもめでたいデザインは、私の考案による。
9月「小説新潮」にて「夢をみた(のちに「楽園のカンヴァス」に改題)」の連載スタート。
12月、矢部さんの誘いで蓼科を視察。矢部さんは蓼科にセカンドハウスを持っていて、ウィークデーは東京で勤務、週末には蓼科で過ごすといううらやましい「二拠点居住」を実践中。「蓼科はいいぞ〜蓼科はいいぞ〜引っ越して来いよ来いよこいよ〜」と呪文のように言われ続け、「いいかも…」と思い込む。蓼科を舞台に若者たちが米作りを通して再生する物語「生きるぼくら」を着想する。
さまざまな女性が主人公の24話の連作短編『インディペンデンス・デイ』(文庫化の際『独立記念日』に改題)、地方が舞台の母と娘、家族の愛情物語集『星がひとつほしいとの祈り』、沖縄産ラム酒を造った女性起業家の実話をもとにした『風のマジム』刊行。
2011
2月、蓼科の近くにある信濃境という場所で、友人の農家・黒岩夫妻が営む自然農の米作りワークショップに参加。漫画家のみづき水脈さんも参加することになり、二人の体験はのちにエッセイ&コミック『♡※ラブコメ』となって収穫される。
3月11日、東日本大震災発生。計画停電の中、パソコンの画面の明かりだけを頼りに、祈るような気持ちで「生きるぼくら」を書き続ける。
原発事故後、日本中が不安におびえる状況下で、「楽園のカンヴァス」最終回を書き上げる。どんなことがあろうとも、最後には希望の灯があるようにーーという気持ちで。
4月、2009年から取材で通い続けていた京都で、原発事故の影響から逃れようと首都圏から「避難」してきた母子を多く見かけ、「異邦人(いりびと)」を着想する。
5月、蓼科の森の中に家を建て、引っ越すことを決意。友人の建築家・馬場正尊さんに設計を依頼、内装は後藤寿和さん、池田史子さんのユニット「gift_」に、作庭はガーデンデザイナー塚田有一さんに依頼。クリエイティブ・チームとの共同作プロジェクトとして移住計画を始動。
秋、第二の故郷・岡山が舞台の『でーれーガールズ』出版を機に母校・山陽女子高校の同窓メンバーたちと再会。本作は2015年にオール岡山ロケで映画化され、公開された。
チェリストの継母とチェロをあきらめた娘の音楽物語『永遠(とわ)を探しに』刊行。
2012
1月、『楽園のカンヴァス』発売。お願い通り、帯に「構想25年」と書いてもらい感慨深くなる。
2月、トルコ作家協会の世界女性デー関連企画でトルコに招かれ、東西が融合する古都の文化にすっかり魅了される。『楽園のカンヴァス』刊行後のインタビューが途切れなく続く。多くの読者に受け入れられていることを感じ、またもや感慨深くなる。
4月、朋友の水戸芸術館学芸員(当時)高橋瑞木さんとともに、ニューヨーク、ロス、サンフランシスコを旅する。その最中に山本周五郎賞ノミネートが発表。「絶対受賞する」と瑞木ちゃんに予言されたので「なんでそう思うの?」と訊くと「文句なく面白かったから。あと、原田さんの執念が実を結ぶはずだから」。
5月、山本周五郎賞受賞。瑞木ちゃんの予言的中。記者会見で自分の緊張をほぐそうと自分で自分にツッコミを入れて自分で笑った写真が翌朝の新聞に掲載され、ほんとうにうれしそうな笑顔に見えたのでよしとする。6月末の授賞式のために、『本日は、お日柄もよく』作中で自分で作ったスピーチ10ヶ条に基づき、3分間のスピーチ原稿を作り、暗記する。本番ではスピーチの前に手のひらに「静」と書くのを忘れる。が、けっこううまくいった…と思う。
『楽園のカンヴァス』が多くの読者に受け入れられたことで、「史実をベースにしたフィクション」を書き続けようと決心する。それはいつしか「アート小説」と呼ばれるようになる。
10月、パリのリトグラフ工房「idem」を舞台にしたラブコメディ「ロマンシエ」着想、取材。idemのオーナー、パトリスに「どんなふうに書かれるのか楽しみだよ。絶対フランス語に翻訳して読ませてほしい。絶対だよ、絶対!」と念を押される。なので、文芸雑誌「きらら」連載中にミニ漫画化して毎月idemに送り、パトリスのアシスタント・大津明子さんに説明してもらうことにする。
売れないアラサータレントで無類の旅好き女子の人情物語『旅屋おかえり』、『生きるぼくら』刊行。
2013
1月、真冬のモスクワ、サンクトペテルブルグへ「プーシキン美術館展」のプレスツアーで訪問。初ロシア訪問で、ルソーの「詩人に霊感を与えるミューズ」が見られるのを喜ぶあまり、滑って転んで頭を強打したが、なんともなかったうえに、以後文章にキレが出てきたような気がしないでもない。
そんな中、留守中の日本で蓼科の森の家が完成。夫が一人で引っ越しの準備をせっせと進めてくれる。
2月、日曜美術館の企画で、パリのクリュニー美術館所蔵のタペストリー「貴婦人と一角獣」の取材をし、同作品の日本での展覧会に連動した小説「ユニコーン」を書き下ろす。展覧会連動型小説という新しいアート小説のスタイルに開眼。
パリから帰国後、いきなり引っ越し。矢部さんが「蓼科は寒いけど乾燥してるから大雪にならない土地柄なんだ」と言っていたのを真に受けて、真冬でも雪がないなら引っ越しできるだろうと踏んでいたのだが、当日は大雪でマイナス15度であった。
4月、ドキュメンタリー『いと 運命の子犬』を書いたご縁で、愛知県にある介助犬センターからキャリアチェンジ犬のラブラドール犬「ジャム」(♀)を引き受ける。介助犬の訓練を受けつつ、家庭犬にキャリアを変える犬のことを「キャリアチェンジ犬」と呼ぶ。賢くやさしくおだやかなジャムは、愛犬マチェック以来、我が家の新しい家族となる。
5月、愛すべき「美しき愚かものたち」である印象派、モダン・アートの画家たちの人生を描いた『ジヴェルニーの食卓』刊行。実在した巨匠たちを物語の中で描く喜びはひとしお。以後、敬愛する画家を中心にさまざまな物語を書き続ける。
9月、ようやく落ち着いた蓼科の家のお披露目をする。設計コンセプトは「森に沈む家」。内装コンセプトは「北欧と民芸が融合する部屋」。満足まんぞく。
日本初の女性総理大臣とその夫の愛情物語『総理の夫』刊行。

(つづく 近日公開予定)