最新刊『美しき愚かものたちのタブロー』インタビュー vol.2

2019.06.07
インタビュー

 国立西洋美術館設立60周年の餞(はなむけ)の一冊にしたかったという『美しき愚かものたちのタブロー』。「松方コレクション」返還に向けた厳しい交渉を描くハードボイルドな一面もありながら、マハさんらしいアートという一本の芯が通った本書には、マハさんが込めた深いテーマがありました。

名画とともに過ごした四年間が日置の心にどう作用したのか、一番関心があった。

 ——戦前から戦後にかけて、政界財界で活躍した松方幸次郎は、学生時代に留学をし、とても国際的な感覚を身につけた人物でした。これだけの一大コレクションを集めた松方が、当初はまったくアートに興味がなかったことにまず驚きました。

 松方は明治期に首相を務めた松方正義を父に持ち、日本有数の造船所の社長でした。船を売り込むために欧米に何度も渡航していたひとりの実業家が、ひょんなことから芸術と出合い、人生が変わっていく。極めるとなかったら、とことん一気に極めていくという松方の性質が、「松方コレクション」という一大コレクションを築くまでになっていきます。自分でお金を出してアートを買い集めること、でだんだんと芸術への素養がつき、自分で美術館を作ろうと思うまでになる。松方はアートを通じて、ある種の成長を遂げた人物です。

公式Instagramでもご紹介したフランス・パリにある高級ホテル「ル・ムーリス」。原田さんは松方幸次郎が定宿にしたこの場所を訪れるなどして、美術館設立を切望した松方の足跡を追った。

 ——松方の部下だった日置釭三郎もまた、アートとは無縁だった人で、元々は日本海軍所属の技術士兼飛行機操縦士でした。松方の造船所が飛行機の製造をはじめたのを機に、日置は飛行機の製造、操縦技術を学ぶためにパリに送られましたが、戦時中には「松方コレクション」を守るという重い任務を託されてしまいます。

 最初、日置は目立たない形で作中に登場しますが、物語がクレッシェンドのように終盤へ向けて盛り上がってくるにつれて、最後にだんだんと存在感を増していく重要な人物です。
 名画とともに過ごした四年間というのが、日置の心にどういった作用を及ぼしたのか。日置自身が語ったことはそんなに多く残っていませんし、もう故人のため、本当のところはわかりませんが、実は私が一番関心のあったことでした。
 極端なことをいうと、アートがなくても食べて寝て生きていくことはできる。けれどもアートがある人生はどういうものなのか。突然、アートが自分の身の上に降ってきた日置に、ぜひ注目していただきたいです。
「アートに詳しくなかったけど、原田さんの小説を読んで興味を持った」と言ってくださる読者も多いので、今までアートにあまり関わりのない生活を送ってきた方々は、おそらく日置と自分の身を重ねて読まれると思います。

この小説はある意味、四人の男たちの群像劇の形をとったお仕事小説という側面もある。

 ——松方が戦前に海外に通い詰めた作品の数々は、戦時中、パリとロンドンに留め置かれ、一部は日本で保管されていました。松方が実業家としての生命を終えるとともに、日本にあった作品は競売にかけられ、ロンドンに残していたものは火災に遭い喪失してしまいます。私たちがいま鑑賞できる「松方コレクション」は、日置が守り抜いたものだけなのですね。

 たった一人の男のアートを守るという行いが、私たち全人類の財産である芸術、美術を守ることに繋がったという歴史的な事実をみなさんと共有したかったですし、私たちがなぜ文化財を守っていかなくてはいけないのかという大きなテーマに、この作品を結実したいと思いました。
 第二次世界大戦の末期、松方と音信不通になってしまった日置が、タブローに翻弄されながらもどうやってコレクションを守っていたのか。作中で、日置がタブローを抱きかかえながら自転車で疾走する描写がありますが、このシーンのイメージはアボンダンでの取材を経てから私の頭のなかにずっとあったものでした。連載の最中、このシーンを書けたときはほんとうに嬉しかったですね。

 ——日置は戦火を逃れながらの生活に困窮するなか、そこまでして守らなくてはならないタブローとはいったい何なのかという疑問を持つようになります。日置が悩みながらも松方からの任を全うする姿には、胸を打たれました。

 松方の要望に応えたい一心で、「松方コレクション」を守り抜いた誠実な仕事人として日置を描きましたが、この小説はある意味、四人の男たちの群像劇の形をとったお仕事小説という側面もあります。
 松方が一大コレクションを築き、それを日置が守り抜き、吉田茂と田代が諦めることなく返還の交渉をやり遂げる。ただ、それぞれの立場でやるべき仕事をやり抜いた男たちの中で、松方だけが唯一「一大コレクションを所蔵する美術館の設立」という彼の仕事をやり遂げずに他界しました。作中で吉田茂が「弔い合戦」という言葉を口にしますが、それはまさに松方の悲願を叶えるということであり、みんながサポートすることで松方の仕事もまた成し遂げることができました。

(インタビュー・構成/清水志保)

SHARE ON

さらに記事をよむ

TOPICS 一覧に戻る