マハさん翻訳本『愛のぬけがら』インタビュー vol. 2
- 2022.03.19
- インタビュー
ムンクの足跡に触れる旅の途中、オスローのムンク美術館で手にした『LIKE A GHOST I LEAVE YOU』。五年の時を経て、マハさによって翻訳された『愛のぬけがら』には、ムンクの生々しい言葉の数々が記されている。マハさんの名訳も光る本書のインタビュー第二回。
いまでもタイトルの言葉がある一節を、どう翻訳したかはっきりと覚えている。
――タイトルに惹かれて購入されていた英訳本『LIKE A GHOST I LEAVE YOU』を、マハさんが翻訳することになったきっかけはありますか?
マハ……買ってからはぱらぱらと見ただけで、深く読み込まずに置いておいたんですが、2018年に上野の東京都美術館でムンクの大回顧展が開催されることになりました。そのときにある出版社の方からお話をいただいたのが、『LIKE A GHOST I LEAVE YOU』の翻訳だったんです。当時、いろいろな仕事を抱えていましたが、ぜひやってみたいと思いました。ムンク展には間に会いませんでしたが、長い時間をかけて、結果的に幻冬舎から出版されることになりました。
―― 偶然、見つけたムンクの本を、ご自身で翻訳されることになるなんて、驚きですね。
マハ……偶然の閃きで手に取った本を、最終的に自分の手で翻訳するなんて、思ってもいなかったんですが、私のなかで「こういう運命だったんだ」と思える本になりました。勝手な私の思い込みですが、翻訳の機会を与えていただいたことは、ムンクから「君になら任せてもいいよ」と言ってもらえたような気がしています(笑)。私とムンクの間にコンタクトが生まれたことが、とても幸せです。
――タイトルの「LIKE A GHOST I LEAVE YOU」という言葉に、マハさんは「愛のぬけがら」という言葉を選ばれました。本書の表紙に使われている《マドンナ》の絵と相まって、見てはいけないものを見てしまったような雰囲気を纏っていますね。
マハ……翻訳を進めていくうちに、タイトルにある言葉が出てきたんです。ムンクがどういうシチュエーションのときにノートに残したか、初めてそこでわかりました。当時恋人だったトゥラ・ラーセンのもとに通い、恋人と愛を交わし、彼女から去る時に残した彼の呟き。とても短い手紙の下書きでしたが、どれほど彼が、トゥラとの燃え上がるような恋愛に、心も体も注ぎ込んでいるか。彼女を愛することに没頭して、彼女に完全に吸い取られている様子が見てとれます。「LIKE A GHOST」という言葉から、目に見えない不安や恐れ、あるいはかすかな希望も感じられ、いまでもこの一節をどう翻訳したかはっきりと覚えています。
――かつてムンクは人妻のミリー・タウロウと交際していました。手記にはL嬢と書かれた女性が登場したり、彼はとてもモテていた印象を受けました。
マハ…ムンクの人生を彩る女性は何人か挙げられますが、女性を好きなると情熱的なタイプではあっても、ムンクは家庭を持つことはありませんでした。結婚を避けるムンクとトゥラが言い合いになって、ピストルが暴発してしまう事故が起き、トゥラとはこの一件でこじれてしまった。いくら成功していても、物を斜めに見るところが彼にはありましたね。
読まれることを目的に書かれていないプライベイトな呟きと真実の叫び。
――ムンクの手記のなかには、ゴッホに関しての記述もありました。二人は同じ時代を生きていたんですね。
マハ…ムンクはゴッホ的な情念みたいなものを、初めて絵のなかに表した画家の一人だと思います。当時の画家はインテリな人が多く、詩人や作家、音楽家といった表現者たちと芸術的、文化的な交流をしていた時代。ムンクもとてもインテリでしたし、彼の言葉にはナイフのような鋭さがあります。
ゴッホもテオとの往復書簡が残っていることで、彼の人生そのものを研究、追想できますが、ムンクもノートやスケッチブックの端々に残る言葉から、彼の考え方や思考、なぜ彼がこの作品を描くことができたのか、人間・ムンクを読み解くことができます。読まれることを目的に書かれたものでないことが、いっそうプライベートな呟き、真実の叫びとして刻まれていて、『愛のぬけがら』はとても面白い本になっていると思います。
――本書を読んでムンクのことを調べていくと、ムンクも《星月夜》という作品を残していることを知りました。
マハ…ムンクがゴッホの《星月夜》を見ていたとも限らないですし、見ていなかったとも言いきれません。ゴッホに影響を受けたかどうかはわからないですが、私はムンクの《星月夜》はすごく好きです。ムンクの作品のなかでも《星月夜》明るい作風で、月に照らされた明るい夜を描いていますよね。
一方、ムンクの《月光》(文庫『異邦人(いりびと)』の装画)は、ものすごく明るい月の光のなかで、女性の顔が浮かび上がっているようで、夜の怖さと美に取り憑かれているように感じる作品です。
(マハさん翻訳本『愛のぬけがら』インタビュー vol. 3につづく。/インタビュー構成・清水志保)
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