小説「望郷」

2022.04.21

 あれから2年。パリに帰ってきた。

 あの日、人影が消えた街角には賑わいが戻っていた。
 カフェでの語らい、走り回る子供たち。
 人々はマスクを外し、笑顔で挨拶を交わす。
 
 この風景を見るために、私は帰ってきた。
 東回りのフライトで、北極圏近くを飛び、18時間かけて。




 2月24日、世界に衝撃が走った。
 ロシアによるウクライナ侵攻。

 住宅への爆撃、街中を進む戦車。兵役のため家族に別れを告げるウクライナ人の若者。

 どこへ行くの? 
 幼い娘の問いに、父親は声を詰まらせる。
「戦争に行くんだよ」

 そんな言葉を口にする日が来るなんて。





 ロシアへの経済制裁が始まった。日欧便はロシア上空を飛べなくなる。
 出発前日、羽田=パリ便がキャンセルに。東回りのロンドン便に変更し、とにかく行こうと決めた。

 娘が戦地に赴くかのような老母の心配顔。
 世界地図を書いて飛行ルートを説明した。大丈夫だからねと。






 北極圏近くを飛行中、客室乗務員が教えてくれた。
 オーロラが見えますよ。
 窓の外は満天の星。白鳥座が目の前を飛んでいる。オーロラのカーテンのドレープが揺らめく。私の飛行機はその真下をくぐり抜けていった。

 ようやくパリに着いた。モクレンの花が咲き乱れていた。




 パリ到着の翌々日、感染症対策の規制が撤廃された。

 窓を開け放つと、街が奏でる音が聞こえてくる。
 語らいの声、子供の笑い声、車のクラクション、街角のアコーデオン。
 医療従事者へ贈られた喝采はもう聞こえない。

 孤独だった私の窓辺は、平和な風景画になっていた。





 ここから2千キロ東の国が、今、戦禍にさらされている。

 キエフ在住のロシア人女性が母に電話した。
 ロシアがウクライナを空爆してるのよ。
 母は怒った。親に嘘をつくの?と。
 女性は泣いた。母に信じてもらえないと。

 日本で毎日ニュースを見ている母に、電話で聞かされた。




 3月24日、ゼレンスキー氏の演説。
 
 日ウ間は8193km、だが平和への思いには1ミリも距離はない。
原発破壊の脅威に晒されているウクライナ。難民となった人々は故郷に戻りたいはずだ。

 ヒロシマ、ナガサキ、フクシマの人々がそうだったように。

 そう聞こえた。






 パリは凪いでいると感じる。戦争は遠くにあってここにはない。
 無風であることに安堵している自分。
 安堵していることを心苦しく感じる自分。

 背反する気持ちを胸に、夜、バスティーユ広場を歩く。自由の天使を掲げた革命記念柱。
 ふと見上げると、青と黄に染まっていた。






 レピュブリック広場。
 7年前、同時多発テロが起きた時デモが行われた。
 一般人を巻き添えにした暴力行為に各国首脳が抗議。
 オランド大統領にいち早く電話をして哀悼の意を告げたのは、プーチン大統領だった。

 自由の女神マリアンヌ。
 青空の中、しんと立ち尽くしている。



 


 ルイ・ヴィトン財団で開催中のモロゾフ・コレクション展。
 ロシア人収集家イヴァン・モロゾフが、20世紀初頭パリで集めたモダン・アートの傑作の数々。
 去年10月、この「里帰り展」を見て、あまりの素晴らしさに絶句した。
 3月6日までの会期だったのに、まだやっている。

 なぜ?





 1917年、ロシア革命勃発。傑作が詰め込まれたモロゾフの邸宅を新政権が接収した。
 モロゾフはスイスへ亡命。3年後、故国へ帰ることなく他界。
 コレクションは国有となり、プーシキン美術館とエルミタージュ美術館に収まる。
 モロゾフ家にもフランスにも返されることはなかった。




 二都市に分割されたコレクションは、もはや一つになれなかった。
 作品を動かせば輸送や保険に莫大な費用がかかり、リスクも伴う。
 それをフランスが引き受けた。
 作品たちを故郷で一つにしてやりましょう。

 100年もの間、離ればなれになっていた作品たち。
 パリで再会を果たした。



 セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、ピカソ。
 ああ友よ、兄弟よ。
 ようやく会えた、懐かしいふるさとで。
 昨秋、会場に踏み入った瞬間、絵画たちが喜び合う声が聞こえてきた。
 マスクをつけた満場の観客が、息を凝らして奇跡の再会に立ち会った。

 5ヶ月後。
 会場は静まり返っていた。






 ふと気がついた。
 展覧会が終わったら、作品たちはロシアへ還されるのだろうか。
 当然だ。ロシアのものなのだから。
 いや、元々は違う。個人コレクションを国が接収したのだ。

 フランスが「里帰り」を実現させた間に、ロシアが仕掛けた戦争。

 そのさなかに、ロシアへ還すのか?






 展覧会カタログの冒頭で、語りかけられている言葉。

 私の親しいフランスの友である皆さん。

 私は、これからフランスの画家たちの傑作がパリに帰り、再び一緒になることを嬉しく思います。

 ウラジミール・プーチン
 2020年




 パリ市庁舎前。反戦の集会が行われていた。

 パリ在住のウクライナ人が叫ぶ。
 私たちを故郷へ還せ。私たちの故郷を返せ。

 作品たちの声なき声が甦る。
 私たちは故郷へ帰って来た。
 2年前、仏露の握手によって。
 けれど、結んだ手が離された今、
 私たちはどこへ行くのか?




 誰であれ、一人ひとりがもっているもの。
 そして誰にも奪えないもの。
 決して踏みにじられてはならないもの。

 いのち。
 自由。
 故郷。






 4月3日。
 展覧会が終わった。

 ゼレンスキー大統領の演説。

 歴史が繰り返してきた残酷な戦争をこれっきりにするために、私たちは全力を尽くさなければならない。

 ウクライナの人々の、
 モロゾフの、
 作品たちの望郷の声が聞こえる。

 ふるさとの街の名を呼ぶ声が。



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