小説「喝采」
- 2020.04.17
書斎の窓からセーヌ川が見える。
毎朝、鎧戸を開けるのが楽しみだった。
きらめく翡翠色の流れ、芽吹きまぢかの街路樹。犬の散歩をする老夫婦、ジョギングに汗を流す人、川向こうの大通りを行き交う車。
3月15日日曜日。
この窓辺の風景が、まもなく私の世界のすべてになることを、私はまだ知らなかった。
前日、友が営むレストランを訪ねると、迎えに出たマネージャーが眉を曇らせて囁いた。
「フランス全土の飲食店に閉鎖命令が出ました。少なくとも1ヶ月間」
耳を疑った。
「いつから?」
「4時間後です」
腕時計を見た。20時だった。
日付が変わった瞬間に全ての店の明かりが消えるなんて。
マクロン大統領の演説をネットで見た。
コロナウィルスの感染拡大が止まらない。このままだとイタリアのような医療崩壊となる。
私たちは戦争状態にある、と大統領は言った。この戦いに勝つためには一人一人の協力が必要だと。
人類を救うたった一つの方法。それは〈引きこもり〉だった。
3月17日。正午からパリが「ロックダウン」される。
店も会社も閉鎖して外出禁止、守らなければ罰せられるとの情報。街中に緊張感が走った。
事務所での仕事を片付け、大急ぎでタクシーに飛び乗ってぎょっとした。
車内にビニールシートが貼られている。運転手は挨拶もせず、無言だった。
SNSで瞬く間に情報が飛び交った。
政府HPからダウンロードした外出証明書を自分で印刷、外出理由を記入。帯同なければ即罰金。在宅勤務を基本とし、出勤の必要があれば代表の許可書を帯同。スーパー、薬局、銀行等は稼働。国が様々な補償を約束する。
全てが驚くべきスピードで始まった。
フランス人は議論好きだ。夜更けまでカフェで会話し、街角で立ち話する。挨拶は握手と両頬へのビズ。最初は打ち解けなくても、一度開けたドアはもう閉めない。
ようやく私もドアを開きかけていたのに。
その全てが遠ざけられた。対面も、握手も、ビズも。
ドアは固く閉ざされてしまった。
通り、カフェテラス、広場、駅。パリの街角から人影が消えた。
ついさっきまで、この街は活気にあふれ、鼓動していた。人々は会話し、笑い合い、働き、子供たちが戯れていた。
けれど今、人間が自らのために自らを社会から一時的に消し去さらなければならないのだ。
完璧な静寂が訪れた。
なぜ人々は早急に消し去られたのか。それほどまでにウィルスの拡散が速いからだ。
医療崩壊はすぐに起こる。病床と救命器具の不足、医療従事者を襲う感染。救える命が救えなくなる。
どうすればいい?
時間を稼ぐしかない。病床を増やす時間、新薬とワクチンが完成するまでの時間を。
このウィルスは唾液の飛沫で感染すると言われている。感染者が触ったところに触れた手で口、鼻、目に触ると感染する。無症状の人もいる。知らない間に感染し、間近に誰かと会話するだけでうつしてしまう。
だから、誰にも会わず、喋らないこと。それが自分と大切な誰かを守ることになる。
私は書斎に閉じこもった。
窓辺に寄って外をのぞく。
川沿いの街路樹の枝に、山鳩が二羽、ぽつねんと留まっていた。
窓の外にいる血の通った生き物は鳥たちだけだった。
こまめな換気が必要だと思い出し、窓を開けた。
さらさらとせせらぎの音が聞こえた。動いているのはセーヌだけだった。
引きこもって何をすればいいのだろう。
パリなのに。アートが溢れているのに。美術館も劇場もホールも閉鎖。
行くところがない。
――え?
パリなの、本当に…ここが?
おろおろして、落ち着かなかった。部屋の中を動き回って手を洗い続けた。
かさかさの冬の枯れ枝のような手になった。
1日1度、散歩や日用品の買い物は許可されていた。
セーヌ沿いにあてもなく歩いていく。
ノートルダム大聖堂近くでクレーン車が首を伸ばしたまま止まっている。1年前の火災で、尖塔は跡形もなく消えていた。
この街はこれからどうなるのか。
留まって見届けるのが私の義務なのかもしれない。
3月28日。フランスの感染者は3万7千人超、致死率7%。医療崩壊が起きていた。
私の帰国便はキャンセルされた。
帰れないかもしれない。
いや、日本も今後どうなるかわからないのだ、帰らない方がいいのかも。
夜半、微かな喉の違和感で目が覚めた。
ただそれだけで、不安に押し潰されそうになった。
明け方、訃報を受けた。
志村けんさん逝去。
ウィルスが笑いの天才の命を奪った。誰にも見送られずに旅立ったと知った。
もしも私がここで感染し、危篤になったら。
医療現場に負担をかける。皆に迷惑をかける。自分の責任すら取れない。
心が定まった。
帰国する。それだけが今、私の義務だ。
日本ではオリンピックが延期されるも緊急事態宣言は出ず、ロックダウンも不可。
国は補償をできないし、責任も取らないつもりだ。
帰国者には白い目が向けられている。
それでも私は帰国便を予約した。
自分は大丈夫と過信しない。責任を持って自分を守る。
そうすれば、誰かを救うことになる。
夜8時。
閉め切った窓辺にさざ波のような音が押し寄せてきた。
私は窓を開けた。
川沿いの窓という窓が放たれ、人々がいっせいに拍手を送っていた。
命がけで働き続ける医療従事者への感謝を込めて。
私も加わった。思いを込めて。
澄み渡った夕空に響き渡る喝采。
命の証しだった。
4月1日。
帰国便は日本人乗客でほぼ満席だった。
搭乗前も機中も、私たちはずっと無言だった。
着陸後、防護服の検査官が機内へ乗り込んできても、検査待ちの列に並んだ時も、私たちは静かに全てを受け止めた。
人前で喋らない。
それが日本人の強さなのだと、到着ロビーに出てから気がついた。
検査結果を空港隣接のホテルで丸2日、待った。
陰性だった。
2週間の経過観察のための部屋を友が提供してくれた。
川面を白く染めて桜の花びらが流れていく。
その風景に背を向けて、私は再び閉じこもった。
生き抜くために。
この部屋の窓辺にはセーヌがない。
けれど、あの喝采が今も聞こえている。
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