プロフィール

自伝的プロフィール

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1962

東京都小平市に生まれる。

3歳のころから絵を描き始め、幼稚園児の頃は兄(原田宗典)と競い合うように児童書を読みあさる。お気に入りの本は「ドリトル先生」「シートン動物記」。好きなアーティストはパブロ・ピカソ(自分のほうが絵の腕前は上だ、などと思っていた)。

小学6年生のとき、百科事典や美術書などのセールスマンをやっていた父の仕事の転勤によって、岡山へ。岡山市下井福に住む。岡山市立三門小学校、市立石井中学校を経て、私立山陽女子高校入学。フォークバンドを結成し、自作イラストつき恋愛小説、少女マンガを書くなど、かなり進歩的な10代を過ごす。

1981

関西学院大学文学部入学。当初、ドイツ文学科に所属したが、あまりにもドイツ語ができなくて日本文学科に転科。おかげで、明治―現代の代表的な小説をほぼ読破。
就職活動の足しになればと、4年生のときにグラフィックデザインの専門学校に通う。

のちに、阪神大震災で崩壊する運命となる西宮のアパートで、友人と共同生活を送る。このころ、その友人と共著で、少女マンガ「ロマンチック・フランソワ」を「りぼんまんが大賞」に投稿、最終選考に残るもあえなく選外に。
実家は大学1年のときに、岡山から東京へ移住。

1985

関西学院大学卒業。卒論は「谷崎潤一郎:痴人の愛」。就職先がみつからなかったので、そのまま西宮に居残り、バイトをしながら専門学校を卒業。

1986

東京でコピーライターをやっていた兄に呼び戻され、東京へ。
広告プロダクション二か所で勤務するも、あまりの激務に音を上げ、退職。

もともと好きだった現代アートの世界に目覚め、独学で現代アートについて学ぶ。この頃、資金も才能もないのに「ニューヨークへ留学>キャリアアップ」の妄想にかられる。

1987

兄が小説家デビュー。子供の頃からの夢をかなえた兄の根性と才能に仰天。

1988

原宿でたまたま通りすがりにオープンの準備をしていた「マリムラ美術館」(現在は閉館)に行き当たり、飛びこみで「雇ってください」と訴える。その度胸を買われて、まんまと就職。美術展の展示、コレクションの管理、広報、受付と幅広い活動をし、美術館の実務を経験。

1990

5月に結婚。マリムラ美術館を退職し、知人から誘われていた民間のアートマネジメント学校のディレクターとなる。が、肩書に憧れて引き受けたものの、ボランティア活動に近く給与もない。現状打破をもくろみ、その学校にたまたま視察にきた伊藤忠商事新規事業室の人物を頼って、ほぼ飛び込みで「企業とアートの新しい関係」についてプレゼンさせてもらう。またもや度胸を買われて、めでたく伊藤忠商事に中途入社が決まる。

1991

伊藤忠商事株式会社新規事業開発室で仕事を始める。全国の地方自治体や企業の「アート、文化に関するコンサルティング」が主な業務。新しく美術館を開設する際のコンサルティングや、コレクションの売買、展覧会のプロデュースなどを手掛ける。営業で、全国の都道府県を飛び回る。世界中のコレクターやギャラリスト、美術館との交渉も、語学力はなくとも度胸だけでなんとか奇跡的にやり抜く。

1993

当時顧客の一人だった森ビルの森稔社長より「六本木に巨大な都市開発をするのだが、そこに美術館を造ろうと思う。相談にのってくれますか?」と頼まれ、チーフコンサルタントとして「森美術館」の構想策定に乗り出す。

1994

「美術コンサルタントもいいけれど、いつかキュレーターになりたい…」と思い始め、早稲田大学第二文学部の美術史科を学士受験(三年から編入可能)。当時、新宿区西早稲田に住んでいたため、早稲田の二文(夜間と土曜日のみ授業)ならば会社勤めしながら通えると判断した。昼夜を分かたず猛勉強し(人生最高の勉強量!)40倍の倍率をくぐり抜け、合格。専攻は20世紀美術、卒論は「ル・コルビュジエの絵画論」。学芸員の資格を取得。

1995

森社長のお誘いを受け、伊藤忠商事を退職、森ビル株式会社に入社。本格始動した森美術館の設立準備室に所属。以後、世界中の美術館を森社長夫妻と視察。またもや度胸だけで世界中のアートセレブと会いまくる。以後、六本木ヒルズのブランディングや、美術館設立にまつわるほぼすべての業務に関わる。

1996

早稲田大学卒業。

1999

突如森社長に呼び出され、「あなたの英語は下町英語(ブロークンイングリッシュのこと)だね」と指摘される。度胸だけで通してきた英語を看破され、返す言葉なし。ところが、「通訳学校に行きなさい」と社長に寛大にも指示され、通訳学校に入学。またもや仕事をしながら人生最大量の英語の猛勉強をし、ビジネス通訳初級を獲得。以後、ちょっと自信を持って社長の通訳を務められるようになる。

2000

ニューヨーク近代美術館(MoMA)と森美術館が提携関係を結ぶ。人的交流の一環で、MoMAに派遣され、6か月間のニューヨーク駐在。MoMAインターナショナルプログラムに所属し、美術館のしくみを学び、企画展、国際展についてリサーチを行う。

2002

森美術館の館長が決定されたのをきっかけに、「人生でほんとうにやりたいことは何か?」と考える。おりしも40歳になる年だったので、「女の人生は40代がプライム。いちばんやりたいことを40代でなしとげる」と考え、またもや度胸で退職。実はなんの展望もなかったが、直観だけで独立。
同じころ立ちあげられた都市の再生プロジェクト「Rプロジェクト」に参加。のちに朋友となる建築家やデザイナーなど、キラ星のごときクリエイターたちと出会う。

新しい都市論としての本、「R the Transformer」を建築家・馬場正尊氏と共著、出版。
都市開発の会社など、フリーランスで文化コンサルティング、ブランディングを手掛ける。

2003

Rプロジェクトの取材がきっかけで、編集者・菅付雅信氏に出会う。当時、雑誌「インビテーション」の編集長だった菅付氏は、「原田さん、ニューヨークに住んでたんだよね?むこうにいっぱいクリエイターの知り合いいるよね?今度ニューヨーク特集するんだけど、取材行ってみる?」と、こっちはライターとしてなんの経歴もないのに、突然オファーしてくる。やはり度胸で波に乗る。イラク戦争開戦3日後、がらがらのアメリカン航空でニューヨークに向かい、20人以上のクリエイターの取材をこなし、30ページ近くの特集記事を執筆。これが、カルチャーライターとして仕事を始めるきっかけとなる。 デザインイベント「東京デザイナーズブロック」に関わった縁で、デザイナー・佐藤直樹氏らとともに、「東京の東側にチェルシーのようなクリエイターエリアを作ろう!」と、突然、「セントラルイースト東京(CET)」というアートイベントを始める。100人近くのアーティストが、日本橋、馬喰町、浅草橋近辺の空きビルをジャックするイベントをやり遂げる。

2004

アート、都市コンサルタントの仕事で、北京、上海に足しげく通うようになる。
「CET04 VISION QUEST」という展覧会を仕掛け、動員は一気に2万人に膨れ上がる。

たまたま知り合いになった角川書店の編集者に「共同執筆で働く女性のインタビュー集を作らないか」と持ちかけられる。その取材で、沖縄の女性社長をインタビューすることになり、沖縄へ出向く。なんとなく文章を書きなれてきて、「ひょっとしてそろそろ小説書いてもいいかもな…」と漠然と考えていた時期だった。那覇で取材をしたのち、ぶらぶらとやんばるへ行き、そこで泊まった民宿のおかみさんから「伊是名という島がいいところらしいよ」と聞き、行ってみることにする。このときには、人生を変える運命がその島に待ち受けているとは思いもよらず。

伊是名島に渡り、浜辺で遊ぶ男性とラブラドール犬に出会う。もちまえの好奇心から、「何て名前のワンちゃんですか」と聞いたところが、「カフーっていうんです」と。「どう言う意味ですか?」「沖縄の言葉で、『幸せ』という意味です」・・・・・・
その瞬間、何かが、どーんと下りてきた。沖縄の離島の浜辺で、幸せという名の犬に出会ってしまった・・・・・。
帰りのレンタカーの中で、すっかり小説のプロットができあがっていた。

もし、あの犬の名前が「シーサー」だったら、小説を書くことはなかっただろう。飼い主の名嘉民雄さんの名付けセンスに感謝。

2005

1月1日、この記念すべき日を忘れまい、と元旦から小説を書き始める。
6月、共著「ソウルジョブ」刊行。小説をこつこつと書きすすめるが、角川書店の友人編集者に読んでもらおう、というくらいの感じだった。
7月末、いつも旅をしている友人と出かけた北海道真狩村のホテルのロビーで、いつもは読まない日経新聞を何気なく広げる。そこに「今、ラブストーリーがブーム」の文字が。「日本ラブストーリー大賞設立」「大賞受賞作は映画化」・・・・これだあ!と、思わずホテルの新聞の1ページをべりべりと破って持ち帰る。
9月13日、「カフーを待ちわびて」完成。しめ切り2日前。日本橋の郵便局から投稿。
同じころ、11年前から飼っていたゴールデンリトリーバー、マチェックが脾臓がんになり、症状が悪化、必死に看病する。また同じころ、「CET05」の準備が始まる。いま思い出しても、どうやってこの時期を乗り越えたか判然としない。
10月1日、「CET05 Office Vacant」が始まる。CET史上最高の5万人の動員を記録。
10月31日、宝島社より日本ラブストーリー大賞最終審査に残った旨、通知あり。マチェックの症状、悪化。
11月1日、恵比寿に60年代カルチャーショップ「TRIggER」をオープン(現在は閉鎖)。
11月2日、マチェック死去。涙、涙・・・・・・
11月30日夜、宝島社より電話あり。日本ラブストーリー大賞受賞。ただただ、びっくり。どうしていろんなことがこうもいっぺんに起るんだろうか・・・・・・
12月9日、授賞式に臨む。あまりにも落ち着き払っていたせいか、司会者控室に案内されかける。無事、受賞。

2006

3月、「カフーを待ちわびて」で小説家デビュー。

以後、ごぞんじの通り。

ここまで書いて、わが人生のキーワードは「度胸と直感」だとわかった。
最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。(原田マハ)

原田マハ